南山について

 
 
@南山の抱える問題と開発
 A里山保全方法の模索
 B南山ってどこ?


南山の抱える問題と開発


◎里山とは?

 里山は古くから地域の人々が農業や生活の為に手入れしながら育ててきた二次的自然です。里山の多様な環境には原生自然に劣らない豊かな自然生態系が保たれています。

しかし近年は化石燃料や化学肥料の普及で里山の利用は減りました。


◎里山荒廃と都市化

 農業が衰退し、後継者も少なくって来ると里山は萌芽更新などが行われず放置されるようになりました。利用されなくなった里山はゴルフ場やニュータウン、大学、墓地など、さまざまな土地活用が進みました。都心に近い里山はさまざまな開発の手が入り始めました。


◎市街化区域になった南山

 昭和43年に現在の都市計画法が出来た時、南山や坂浜の三沢川右岸は都の第一次素案では市街化調整区域(開発しない区域)に計画されていました。しかし、地権者や市民の間に南山を市街化区域(開発する区域)にする運動が起こり都へ何度も要望し市街化区域になった経緯があります。それが南山開発の発端となりました。


◎繰り返された開発計画

 その後南山では何度も開発計画が繰り返し立てられました。昭和40年代後半に公団による全面買収開発が計画された時には地権者が反対派、賛成派に割れて運動しました。また議会でも4案を出して何度も審議を継続しましたが、結局区画整理方式の開発が良いが、地権者の意向を尊重することに収まったようです。


◎砂利採掘による危険な崖地

 地権者の一部は利用しなくなった南山の山砂(稲城砂)を業者に売り始めました。現在の北側の崖はその当時に出来たものです。しかし南山の北斜面自体、以前から急峻な地形でところどころは砂地が表れていました。(昭和33年の狩野川台風にも一部崩落が確認されています。)無謀な山砂採掘の結果、地域は危険にさらされ昭和47年に土砂災害が起こりました。そのため採掘は中止されましたが関わった業者は何の責任も取っていないと伝えられています。更なる土砂災害を回避するために都の指導で、北側には長く大きな溝が掘られましたが、現在ではそれも埋まりつつあります。

余談ですが当時の採掘現場(現南山グランド周辺)は、仮面ライダーなどの撮影場所として一部の人たちに知られています。


◎根方谷戸の崩落

 東部の根方(ねかた)谷戸では昭和51年台風17号で南側に位置する根方谷戸からてっぽう水となった濁流がランド坂を流れ下り、ランド坂近辺は数日間通行止めになりました。そのため読売ランドは根方谷戸川にコンクリート堰を作りました。


◎地権者の抱える税金問題

 山林自体の税金は市街地に比較して格段に抑えられており、それでも南山の地権者は南山全体で年間で総額1億円近くの固定資産税を支払っています。地権者が開発を望む裏にはそういった現実があると言われています。また、近年、市街地の農地がどんどん減少していますが、これは区画整理事業と共に相続税を支払わなければならないという面もあります。農業者は平地の農地を守るために今は利用していない山を税金対策にしたいという思いがあります。


◎三井不動産による土地買収と昭和62年の開発計画

 昭和50年代後半から、三井不動産の南山買収が始まりました。区画整理を目論み、市内全域にPR紙「梨の木便り」を発行し、昭和62年(1987年)には百村(もむら)地区、坂浜地区を含む144haで区画整理が計画されました。その時、私たちは南山の自然を守るために市民呼びかけて「稲城の自然と子どもを守る会」を発足させ、さまざまな運動を展開しました。また、子どもと一緒に自然に親しむ活動を現在まで継続しています。

さまざまな理由で百村の地権者が開発計画から離脱し、144haの開発計画は中断しましたが、矢野口地区、東長沼地区で現在の東部地区区画整理の原形となる準備組合が平成5年に結成されました。

平成7年には「稲城の自然と子どもを守る会」は南山開発で自然や農業を残して欲しいという主旨の陳情署名をおこない、趣旨採択となりました。


◎2001年4月の南山東部区画整理計画の発表

 2001年4月には現在の南山東部地区区画整理事業88.9haが発表されました。「稲城の自然と子どもを守る会」は広く市民に呼びかけて、自然を何とか残したいと、「南山懇談会」を発足させました。発表直前の3月議会には「南山を自然保全地域に指定する陳情」を提出しました。しかし審議直前に取り下げました。それは当時の議会では否決される公算が大きく、また、市民への広報も不十分で、否決されては二度と同じ主旨の陳情は出せなくなると判断したためです。その後「懇談会」は「南山の自然を守る会」に名前を変えて現在まで活動しています。